和泉木綿の会

和泉木綿の歴史

よみがえれ!幻の地場産品

十六世紀の中頃に花開き、二十世紀の初頭に閉じた『和泉木綿』その歴史を訪ねると
ともに、いま再び咲かせようとする人々の活動を追ってみました。

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寛永期に綿作が急増

中世の一般の人々の衣料は布子といわれる麻の繊維で作ったもの。絹はもとより木綿も当時は主に朝鮮や中国から輸入される貴重品で身に着けることはできませんでした。
しかし、永正7年(1510)に三河の木綿が奈良の市場に現われると、やがて綿作の技術は、和泉・河内など畿内にも普及。天正・文禄・慶長期(1573~1614)には、木綿が庶民の衣料材料として麻にとって代わりました。寛永5年(1627)、江戸幕府が農民の着物は「布木綿たるべし」と下達すると、畑だけでなく田にも綿を栽培する者が急増し、米の減収を恐れた幕府が畿内に「田方木綿作禁止令」を 発布(寛永19年)しなければならないほどだったようです。

名ブランド『和泉木綿』

綿作開始当初の農家では、収穫したままの「実綿」または種を取り除いた「繰綿」として
換金し、残りを家族用に織る程度でしたが、やがて換金のための木綿織りが始まります。
そして元禄~宝暦年間(1688~1763)には多くの絹織職人が木綿織りを始めるなど
して木綿生産は急成長しました。少し時代が下りますが、文化7年(1810)には泉州木綿の年間総生産量が100万反に、さらに文久年(1861~1863)には200万反にも達しています。毛足が長く良質な、和泉産の綿花は細い糸を紡ぐことができたため、その糸で織上げた布は、染め下用の薄手の晒木綿にして手拭地や紅裏地(紅花で染めた着物の裏地)に用いられ『和泉木綿』の名で高く評価されていたのです。

綿作の衰退

さて「田方木綿作禁止令」にもめげず順調に発展してきた綿作は、八代将軍吉宗がすすめる「享保の改革」という大障害を迎えます。それは、延享元年(1744)に胡麻の油と百姓は、絞れば絞るほど出るもの也で悪名を後世にまで残した、ときの勘定奉行神尾若狭守春央が、異例の上方巡見で打ち出した「田方木綿勝手作法」です。
つまり、稲を作るべき田に有利だからと綿を作るのは百姓の勝手作りだから、田の綿作が全滅しても年貢はその年のその村(1896)に「輸入綿花税」が撤廃されるとその姿を消し、野菜がそれにと・て変わりました。の稲の一番よい出来に準じて徴収するというもので、宝暦~明和期(1751~1771)の綿作は大打撃を受けたのです。
その後、肥料の高騰もあって畿内の綿作は衰微の一途をたどり、明治4年(1871)に「田畑勝手作」が許可され一時盛り返したものの、明治29年(1896)に「輸入綿花税」が撤廃されるとその姿を消し、野菜がそれにと・て変わりました。

幻の地場産品に

それでも木綿織りの現場では、織機が改良されて生産効率や品質が高まるなど、和泉の木綿産業は発展し続けました。しかし、糸が手紡糸から紡績糸へ移り、布も手紡木綿から半木綿(輸入された紡績糸を半分使用)、そして丸唐木綿へと変わり、『和泉木綿』は消えてしまいました。その後、紡績所の設立や力織機の導入で、工場での大量生産が始まり、泉州は日本の綿織物の約50%を生産する日本一の産地となりましたが、あの『和泉木綿』は幻の地場産品となってしまったのです。